私は木であり、森であり、風であり、鳥である。生命という存在だ。人である私たち、正しき魂は、すべての宇宙を森羅万象にすることができる。
木が酸素を作り私たちを生かすように、私たち一人ひとりも大きな木のようになっていこう。全てのいのちを守るように包む、大気のようになっていこう。自分を大事にしよう。自分を大事にすることは魂といういのちを大切に扱うことだ。

この時間軸の中で最後の、宇宙でたった一つの森羅万象である地球。私たちはそこに生きるいのちなのである。

太陽

魂というのは実は集合体である。聳える山も、雨のしずくも、抱擁する海も、人もねこも、個々のいのちは御魂を分けて生きているのではなく、いのちは私に与えられた、全ての存在のものなのである。
魂のことばは身体の奥の方からじわじわと全身に染み渡るような伝わり方をする。海を眺めていると寄せては返すその穏やかさが流れ込んできて、いつのまにか自分が静けさをまとっていることに気が付きはしないだろうか。また、自分が自分に強く慈しみを感じたなら、それは庭のぐみの木にも同じことが起こる。ぐみの木が全身でそれを感じるのだ。あの湖の麓の白樺にも、昼間の白い月にも。
魂の世界で、私たちは常に一心同体なのである。

節制

それぞれがそれぞれとして生きること。それが森羅万象のルールである。山には山の、月には月の、風には風の役割がある。それを理解しようと思うのは人だけだ。わかる必要などない。山は聳えていればいいし、月は浮かんでいたらいい、風はそよいでいたらいい。それがこの世界のバランスなのだから。
人には人の、だから生きていればいい。木が倒れていたら優しくご苦労様と声をかけて、草花が薙ぎ倒されていたらすっと立て直して、野菜畑から食べてと言われたものをありがたく頂戴して、巣から落ちた雛鳥をそっと戻してあげたらいい。
それができるのが人なのである。

吊るされた人

そこにはもともと、自然と人の穏やかな営みがあった。搾取もなければ無理強いもない。そこでは人間の都合はあまりにも無意味で、人間もそれを十二分に知っていた。大地は愛され、木はいたわられ、人は守られていた。自然と人が寄り添い助け合い、静かな凪のような空間が広がっていた。時がたち、景色はものすごいスピードでうつりかわっていくが、その気配が消えはしないことを大地は、空は、風は知っている。欅の木は、羽ばたく鳥は、静かにそのときを待つ。私たちはゆっくりと自然に凌駕されてゆき、いつの日か再びそれらしさを取り戻していくのだろう。それが森羅万象の力なのである。

 

ヴィジョンと夢の違い━

皆、夢は見るものだと思っているが本当は夢は見せられるものだ。夢魔が入り込んで見せる夢は、そこに引き込まれてゆくような感じがするし、ドラマを見ているみたいにハラハラドキドキする。憧れや期待、不安が混じりあうことで、もう一つの世界が本当は別にあって、今体験している現実世界は何かがおかしいと思ってしまうし、夢の続きが知りたくなるから起きた後もそれを引きずる。その場合、頭の中は起きていてもずっと夢の中だ。それに気づかず現実でもその幻想を追いかけ、気づいた時にはだいぶ調子が悪くなっていることだろう。まるで夢と現実の境という曖昧なところで、彷徨い続ける亡霊のようだ。

ヴィジョンは魂が修復されていく過程だ。夢のようにストーリー性がなかったりするが、身体も心も自由になっていく感じがする。どこまでも広がってゆくこころとからだ、それらは広がりながら大地や山や空を飲み込んでいき、まんまると豊かなガイアになる。それが私たち、原始地球の魂なのである。

隠者

長く生きること、それは才能だと思う。魂が病気にならないということだから、これは本当にすごいことだ。魂を扱う天才だ。長生きのご老人一人一人の手を握って「すごいですね!」と褒めて回りたいし、「ありがとう!」「おめでとう!」と声を大にして伝えたい。樹木だって、樹齢何千年、というものに出会うと敬意を表して頭を下げたくなる。若木のすくっとした佇まいもいいけれど、老木の前に立つと「おお〜」という感嘆が思わず出てしまうものだ。

人が老いていくことは光を失っていくことのように考える人が多いけれどそれは違う。歳をとることが老いることではない。老いとはもっと根源的なものであり、本当の意味で命を失ってゆくことだ。命とは即ち魂であり、魂が削がれてゆくことこそが老いることなのである。そしてその仕組みは、木も人も違いはない。
魂が削がれるということは、人間の都合によって心も体も支配されることである。

月というのは、狂気を呼び覚ますものとして語られることがある。それは月が女性を表していて、アダムとイヴの物語のように、男性を惑わすのはいつだって女性なのだ、という見解からなのかもしれないし、満月の夜には犯罪が増えるとか、動物たちが雄叫びを上げるとか、そういうところから来ているのかもしれない。何はともあれ、月はそのようなイメージを持たれ、何かを狂わせる象徴として扱われることが多い。その仕組みを利用して作られたのが実は今の現実世界なのである。

自然がなくなった後の世界で、エネルギーになるものは生体エネルギーしかない。だからエネルギー源である私たちは死ぬことを許されない。死ぬことは、この世界を維持できないことと等しい。よってこの世界で月が見せる夢は、森羅万象を信じることを諦めた時に生まれた罪悪感を養分とし、ありもしない現実を並べて空想の世界で永遠に生きるためのデータなのである。

 

しかし本当の月の作用は、この地球に重力をもたらし、波を生み、大気を巡らせ生命を育む。月がなければ木々はこの地上に根を張ることができない。木々がなければ私たちは息をすることもできない。そして何よりも1番大切なことは、月もガイアの一員であり、生命なのだ。少しだけ遠く離れた場所から、私たちにエナジーを送り続けている仲間なのである。